夢を持つことは大切だ――。そんな言葉を誰しも一度は聞いたことがあるのだろう。それは学校の先生か、物語の中に出てくる、キラキラとした瞳をめいっぱいに開いて話す主人公か。教育熱心な家族の誰かか。
どこで聞いたかは思い出せなくても、誰もがそう謳い、多くの人が憧れを知り、努力や挑戦をしていく。キラキラなんて可愛らしい表現ではない。ギラギラとした眩しい目をして、確かにそれは大切なものだと実感できる。
「私だって――」
夢を追いかけること。夢に向かって進むこと。それはいいことばかりではない。夢に届く人が限られているのであれば、競争して夢が叶う人がいるということは。
「夢が破れた人はどうなるの?」
例えばスポーツ。メダリストや優勝した選手やチームを讃えるニュースは見るけれど、負けた人は? その悔しさを次の大会や試合で晴らせるように、努力すればいい。けれどもそれは”次”がある人だけの特権でしかない。
「もしも、私よりずっと才能がある人とであってしまったら」
「もしも、大きな怪我をしてしまって、前のようにできなくなってしまったら」
「もしも、勝つことや夢を叶えたことで誰かを傷つけてしまったら」
「もしも、負けたことや夢が破れたことで誰かを悲しませてしまったら」
そして、もしも――。もしも、夢を抱くことが怖くなってしまったら。私たちはどうすればいいの?
たどり着いた1つの答え。科学のように理屈だらけの感情論。それが屁理屈だって、それでいい。
「キミはまだ、夢を諦めなくていいんだよ。その理由を私が教えてあげる」
入部届という片道切符で、夢のカタチを知る冒険に出かけませんか?
「心育科学部へ、ようこそ――」